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〜昭和6年の夏。日本で初めてトーキーが公開されるまで、映画と言えば無声映画。作品の中で出演者の声や音楽がいっさい流れませんでした。そこで映画のストーリーに合わせて台本を書き、巧みな話術で説明をする活動弁士が大活躍しました。今週のよもやま噺は映画がかつて活動写真と呼ばれていた頃の思い出を米朝さんが語ります。聞き手は大阪ABCテレビの市川寿憲です〜
  (生駒雷遊さんによる映画説明と『南方の判事』の一説をレコードから)
聞き手  活弁は昔、すごく流行ったそうですね。
米朝   私は全盛期はまだ本当に小さいさかい...、でも活弁は知ってますよ。一番古い記憶なんですがね、福岡貢の『伊勢音頭』、あれをドラマにしたんですけどね。「身不肖なれども福岡貢。女をだまして金とろうや」と言う台詞だけ覚えてるねん。なんで覚えとるか言うたらね、それからしばらくしてその芝居を知ったんでね、これはあの時の台詞やなということでそれだけ記憶に残ってるんです。
聞き手  おいくつぐらいの時ですか?
米朝  小学校の低学年ですわな。
聞き手  じゃ、まだ8つとかそのへんですね。
米朝  画面の向かって左の隅ぐらいの所にね、小さいランプを灯してそこに弁士が座ってたのは記憶にあります。ところがマイクはなかったはずなんや。それがちゃんと聞こえたさかいね。客席も静かやったろうし、弁士の声もよう通ったのかな。活弁、活弁いうてね、あれは誰のドラマやったか、芝居やったか、娘が活弁と良い仲になってね、そのお爺さんか親かが、世の中で一番嫌いなものが活弁やった(笑)「そんなもんと一緒になりやがって」と激怒する所があったということを徳川夢声さんが書いてる。それぐらい世間の活弁に対しての評価は、悪評さくさくというものがあって...。で、なまじちょっとインテリやったしね。
聞き手  そうですね。弁士がいて、楽団のようなものがあったんですよね。
米朝  ああ、楽隊、楽隊と子供ら言うてましたけど。前にボックスのようなものがあってそこに5〜6人の編成でしょうな。良い劇場はピアノがあった。で、それがなくなってトーキーになった時にバンドマン連中が困ったらしいね。かなり高給をとってたんでね。生のバンド入れるキャバレーなんか、大阪でもまぁ〜1軒か2軒あったやろうけどね〜。
聞き手  調べていきますと昭和6年の8月の『マダムと女房』というのが、トーキーの第1作なんです。で、昭和7年の4月には弁士とか楽士とかがストを起こしました。
米朝  それから地方へね、しばらくは...。ところが地方の小さい小屋でもみんなトーキーの機械を置くようになってね。
聞き手  それはやっぱり今まで人が喋って説明してたものが、短いものでも、稚拙なものでもそこから音が出るというのは...(笑)
米朝  写真の絵が動くということがね、夢声さんが書いたもので、初めはなかなか理解してもらえなんだ。「どう動くのや。化けもんじゃそれは!!」(笑)

聞き手  (映画は)明治29年に神戸の町に輸入されたらしいですね。それは短くあっけないようなフィルムだったらしいですけど、大人気やったらしいですね。
米朝  アヒルかな?なんかがこう泳いでね、すれ違うだけなんやて。
聞き手  へぇ〜!!
米朝  それをちゃんと弁士は説明したと夢声さんは書いてるけどね。
聞き手  なるほどね(笑)
米朝  「別のアヒルが今、反対方向からやって参りました。今まさにすれ違うところであります」(笑)「どうぞお見逃し無きよう」てなことを言うてね。それを何回も何回もやるんですよ。どういう風にフィルムを繋いでいたか分からんけどね、同じに動くんやけどそれでもそんなことを怪しむものも嫌がるものも誰もおらん。そしたら弁士は「このように同じアヒルを何度も何度も登場さすことが出来るというのは、これは文明の...」と言うてね(笑)
聞き手  そうですよね〜。
米朝  それから弁士にはファンがついてた。大正時代の話かな。興行が終わったらね、弁士は名前の書いた提灯を持ってね、ずらっと並んでお客を送り出したんやて、暗いからね。「また来るで」とか「しっかりやりや」「良かったで」とか言うてお客とやり取りがあった。
聞き手  弁士目当てにお客が来るということがあったんですね。
米朝  あったんですよ。勿論顔は分からへんと思うてたら前説というのがあって、いっぺん顔を出してお客の前で喋ったりしたらしいやんね。ちょっと二枚目もおったやろうし...
聞き手  弁士が説明するというのは日本独特のことらしいですね。
米朝  らしいですな。西洋にはなかったらしい。これはやはり話芸というものがあったからかなぁ〜。それと初めはね、劇映画やなしに実写やとかいろんなものがあって、本当に説明がいったんやね。これは何の時の写真であるとか、戴冠式のあれやとか、パリの万国博やとかいうふうに一々説明をして、また長々と輸入したフィルムに説明がついてたらしい、勿論翻訳されたのやろうけど。風俗がみな分からなんださかい、説明はいったんやろな。
聞き手  でもよく聞いたらええかげんなことをいうてたこともあったんでしょうけどね。
米朝  そりゃ、そうやと思うわ。
聞き手  (笑)また洋物の映画で和洋合奏ですものね。ピアノが入って三味線も入ってますものね。
米朝  打楽器も太鼓もあったけど、梵ようなものを叩いたりね、缶のようなものを叩いたり。あれはあれでなかなか面白いもんです。
聞き手  やはりそこの空間に行って弁士さんがいて、和洋合奏があって、無声映画があるという三位一体になってるんでしょうね。
米朝  一つの文化やったんやろうな。これが一つの啓蒙ということもあって、映画を見なさいというよう学校の先生なんかもおったらしいですよ。学校としては見に行くなんてとんでもないといってましたがね。私はね、とんでもないものを記憶してる。お産の映画をね...。戦後出来て、たいへん流行った。
聞き手  へぇ〜!!
米朝  出産の、これは科学的な記録なんやけどね、興行師は「お産の実情をつぶさに見られる」と宣伝したもんやからいっぱい客が来た。短いもんですよ。
聞き手  ほぉ〜!!
米朝  ほならそれが地方にまわり出してね。それがあまりに短いからいろんなもん引っ付けてね、でもメインの客を呼ぶのはお産の映画なんです。昭和二十何年ぐらいやったかな〜。
聞き手  そりゃ、はっきり言って皆見たいと思いますよね。
米朝  絶対秘密の所を堂々と映画でやる。文部省もどこもなんにも言わなんだな、あれ。
聞き手  あの、ぼかしも何もないんですか?
米朝  なかったと思う、俺も観たんやけどね。あんまりアップになると何のこっちゃ分からんへんのやけどね、ほんま。さてこれがね、最後はお産の映画でもお客が来んようになってから、今の春團治君の師匠の二代目春團治師匠の弟子に春雨さんという方がおったんです。どういうわけか借金の形にこのフィルムを渡されてね、向こうは金払わんさかい抵当としておいていったんやけどな、その後どうなったんかなぁ〜(笑)

聞き手  弁士とか楽士のお仕事がなくなってから、徳川夢声さんにしても大辻司郎さん、牧野周一さん、山野一郎さん、あの辺の方は漫談と言うか、芸のあった方は次の活路が(あった)
米朝  そうですね、『漫談』という言葉を作ったのは大辻司郎さんやということになってますけどね。東京で結構人気があったらしいんやな、活弁さんはね。興行が成り立ったんですよ。
  (徳川夢声さんの映画説明『アッシャー家の末裔』をレコードから)
聞き手  徳川夢声という方だけが特別な存在になられて、面白いなと思ったのは、戦後吉本がずっと寄席小屋や劇場を持っていない時に、『グランド』というのをオープンされましたよね。あの時の柿落しに徳川夢声さんが一人で。それとエンタツアチャコさんがちょっとやったりしてらっしゃる。
米朝  へぇ〜。
聞き手  そういう意味で戦後でも昭和30年代でも大きな存在だったんでしょうね。
米朝  はぁ〜。そりゃそうでしょうな。
聞き手  晩年は文化人という感じでしたね。
米朝  そうですね。著作もずいぶんあるしね。
聞き手  NHKの映像に残ってるのは甘辛問答(『こんにゃく問答』)みたいなのに夢声さんと(柳家)金語楼さんがいらして、間にゲストをお呼びになって、高名な先生のお話を伺いながら...
米朝  かなり長く続いた。金語楼さんと出会った時の話なんか面白かったけどね。どうしても金語楼さんは商売意識でね、三枚目にまわろう、笑いを取る方へまわろうとするのは夢声さんが一所懸命止めてね。
聞き手  あと、僕らが観たのは牧野周一さんですね。
米朝  生で観ましたか?
聞き手  はい。牧伸二さんの師匠ですけれど。あちらも独特の調子がございましたね。
米朝  晩年は牧野節になってしまったね〜。毎日あんな調子では喋れなんだやろうと思うけど。

聞き手  関西で漫談という形で一世を風靡した方、師匠ご記憶にあります?
米朝  (花月亭)久里丸さんがね、「関西の漫談家はわし一人や」とよう、言うてはったけど。まぁ〜、やはり東京の、標準語というのが一つの武器やったんか分からんけどね。地方へずいぶん売れたんですな。
聞き手  よく考えたら、独特のもんですね、一人でずっと...
米朝  そうですよ、世界にないやろ。
聞き手  別に動くわけでもない、タップ踏むわけでもない。師匠、映画はよくご覧になりましたか?
米朝  そりゃ大変な魅力ですわ、子供にとったら。なかなか連れて行ってくれへんからな。学校でも教育映画的なものをね、見せたりしたこともあったな。それから戦争が激しくなるとニュース映画的なものをね、校庭でもやったことあるな。大きなスクリーン張ってね。夏休みに夜暗くなってからね。それだけでは人も来えへんから必ず娯楽映画が何か、安もんの喜劇であれ、マンガ映画であれ。校庭で映してるやつは、それはもう映像も悪いし、音もどこで切れるや分からんし、フィルムも途中でよう途切れてたりしましたんや。停電もようあったしね。あの頃昭和21,2年は頻繁に停電が起こりましたよ。それと映画やると言うといっぱい客が来ましたよ。何をやるか分からんけどね。
聞き手  ほぉ〜。
米朝  ユネスコから映画を宣伝するために送ってきた。それは日本に来る前に他所でいっぱい使われて、日本に来た時にはボロボロになってるやつが(送られてきた)それはもっと結構なものが簡単に観られたさかい皆バカにしてたけどね。
聞き手  (笑)でも師匠は映画に何本かお出になってますよね。
米朝  出てる言うたって、そんなん...
聞き手  (笑)
米朝  やっぱり映画に出るということに興味があったさかいね、そんな話が来たら喜んでちょい役でも出たりしたけどね。
聞き手  前回、坂田藤十郎さんにゲストにお越しいただいた時に『女殺し油地獄』に幇間の役で。
米朝  あん時は向こうは主役ですわな、私はあのとき初めて映画に出たんでね。
聞き手  やっぱり映画って違うなと思いました?
米朝  衣装が泥だらけになるんですな。
聞き手  最初の喧嘩の所に出てますからね。
米朝  ほなら2つ用意してあってね、でさっと洗うて乾かしよるんやな、かんかん照りん時はすぐ乾く、そんな贅沢な衣装と違うから。そんなとっかえひっかえ、何回も泥だらけになるんでね。
聞き手  待ち時間の長いのと、何回もやらされるのっていうのは大変らしいですね。
米朝  大変、大変。大変な仕事やなと思うたわ。
聞き手  順番に撮りませんよね。
米朝  そりゃそうや。それはわしら特に、難儀やなと思った。
聞き手  映画は監督さんやいろんな人が沢山いますよね。落語は一人、そのへんの違いは?
米朝  それはもうしょうがないわ。私らある程度割り切ってたさかいね、注文に応じて...。今から考えたら他の者にはちょっと言いにくいの、私らには言いやすかったんやろうね(笑)小沢昭一がどこかに書いてたな。映画はいいアルバイトでね、向こうも言いやすいもんやから、あっさり頼みにくる。こっちも何ぼかになるからあっさり引き受けるらしい。
聞き手  小沢昭一さんがね。
米朝  そうそう、あんまり有名でなかったからね。あの時分、加藤武の方が文学座で威張ってたらしいね。
聞き手  そうでしょうね。
米朝  「武ちゃん遠慮して、俺(小沢)の所にまわってくる。遠慮なんかしなくてもいいのに」って(笑)たとえ1,000円でも2,000円でも欲しかったという...
聞き手  戦後、よく映画に舞台の方が出ていらっしゃいましたよね。あれは劇団を運営するためにもということがあったんですかね。
米朝  新劇の連中も大変やからな。
聞き手  でもそのおかげで、杉村春子さんの若い時の写真が見られたりするんですから。
米朝  はぁ〜、なるほどな。
聞き手  二代目鴈治郎さんも、歌舞伎の世界でいろんなことがあって、映画にお行きになって、昭和30年代から...
米朝  あの人にとっても大変勉強になったと思う。映画に行って帰ってきてから、格が上がったと言うかね、ものが違うたような気がしました。また映画監督は物怖じせずにいろんな注文出してると思いますから、歌舞伎の世界では鴈治郎さんとなったら言われへんからな。
聞き手  またあの人はチャラチャラ歩くだけで大阪とか京都の味が...
米朝  歩くだけで、もうしんどなってきたなとか、暑いやろうなとか...。うまい人やなと、前から思うてたんやけど、映画行ってから大変に上手うなったという感じがしました。失礼な話やけどね。

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