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〜今週の米朝よもやま噺は、文楽の人形遣いの第一人者、人間国宝の吉田文雀さんがお客様です。聞き手は大阪ABCラジオのプロデューサー、市川寿憲です。1月30日ウェスティンホテル大阪で収録しました。〜
聞き手  文雀師匠と米朝師匠は...
米朝  それはもう、ずいぶん古いですわな。
文雀  もう40年...『上方風流』ですわ。
米朝  その関係ですわ。もちろん舞台はそれ以前から見せてもろうてましたけどね。もう今、一番古い部類ですかな?
文雀  いや、一番古い方は簑助さんの方が古いです。子供の時から来ておられましたから。
米朝  いや、それにして、どっちにしても、もうめちゃめちゃ何十年という(笑)
文雀  もう60年越しましたですね(笑)
聞き手  年譜を拝見しましたら、昭和19年、戦争末期に、人手不足のときに黒衣を着せられて舞台を手伝うようになったとありますが、元々は東京のお生まれ?
文雀  そうなんです。父は大阪の人なんですけども、東京に勤めていたときに生まれましたんです。
聞き手  どこでお育ちになったんですか?
文雀  原宿という...
聞き手  東京のあの原宿ですね。
文雀  あそこに池田公爵さんのお屋敷がございまして、その裏門の筋向かいで生まれましたんです。あの辺はちょっと坂を下りますと、團さんのお宅、徳川さんのお宅という大きなお家があちらにもこちらにもあるところでございました。
米朝  そうでっしゃろな、あの辺は庶民のあんまり住めんとこや。
文雀  いや、それは、借家でございました(笑)徳川さんのお持ちの借家に住まわして頂いてね、あちらの支配人さんが月末になると家賃を集めに廻っておられました。
米朝  徳川様の借家...。あの辺誰でも住まわしてくれない...
文雀  そんなことない、すぐ裏に鳩の森の八幡さまがございましたし。

米朝  それがなんでまた大阪に来るようになったんですか?
文雀  私の家の商売は変わった商売でございましてね、私の曾祖父さんかもう一つ前ぐらいだと思うんですけどね、幕末ですけど。奈良の大和の木津から大坂へ出てきまして、道頓堀の裏で、『布団貸し屋』という商売をしてた。それはね、五座の櫓がございます、その向かいに芝居茶屋というのがある。その芝居茶屋に、お芝居のある日は、その当時は電気はありませんから、夜が明けると同時に天窓を開けて、そして三番叟が始まって、舞台端に面明かりを点け、お芝居が始まる。そして夕方、日没と共にお芝居が終わるわけなんです。一般のお客様は朝早くから、提灯を灯してお芝居に来られるんです。お金持ちの方、分限者の方、三井さんとか住友さんというお方は、前の晩に食事を済まされてから、お籠に乗ってその芝居茶屋に来られたり、あるいは舟で道頓堀を来て芝居茶屋の裏から入ります。そこでお休みになる。その布団を調達するのが手前どもの、うちの商売です。
米朝  はぁ〜
文雀  でもその三井さんとか鴻池さんとか云うような立派なお家のは、これは三井の旦那、これは三井のご繚はん、三井のとうさん(娘)、というようにご家族の布団は個人持ちの布団でございまして、それを預かってる。いついつ来られることは前もって分かっておりますので、その日のうちに丁稚が大八車に乗せて運ぶわけ。で、終わりますとそれをさげまして、屋根の上に干したりしまして、手入れをします。で、坂町の一本南の通りまで、うなぎの寝床のような家だったらしいございますけど、蔵が3つございまして、その蔵の中に箱に入れてそれを預かってた。ですけど一般の方にはそのお客様のご注文で、上の部、中の部、並というふうにいろいろ...
聞き手  (笑)
文雀  そりゃ五座。五軒も劇場があったわけですから...。
米朝  たいへんなことや
文雀  そうそう、丁稚も沢山おりましたし。
聞き手  当時の五座の櫓と言いますと、中座、角座、朝日座、弁天座、浪花座。それに全部お芝居がかかってたわけですからね〜...へぇ〜。それでお父様もご商売されたて?
文雀  いやいや、子供の時分ですからね。ですから奈落でいろんな子役さんとやら、裏方さんと一緒に遊んで育った人だから。うちの父は、ベッタン、メンコですね、強かった。それでしょっちゅう河内屋さん(二代目實川延若)を負かしてたそうです。
米朝  巻き上げてた(笑)
文雀  ええ(笑)明治になりましてね、ガス灯が出来ましてね、その次に電気が出来た。そうすると公演がお昼から夜になった。それで私どもの商売はダメになりました。父は算盤が達者だったので、銀行に入りました。大阪市内の本田とか、そのうちに尼崎とか、それから徳島へ行きまして、徳島で初めて銀行の建物に洋館を建てたというんで有名になりました。
米朝  へぇ〜
文雀  それから台湾に銀行を建てるので、台湾にまいりまして、台北、台南、高雄とか建てましたときに、関東の大震災になりました。それで関東の経済界が非常にゆれてるというので、そっちに戻ってこいと言うんで、東京に戻りまして東京の銀行に勤めるようになりました。
聞き手  そこで原宿住まいになるわけですね。
文雀  ええ、その原宿住まいになるちょっと前は別のとこへ住んでたんですけどね。引っ越しまして、原宿になったときに私が生まれました。
聞き手  それが昭和3年ですね。6月8日。
米朝  へぇ〜、生まれてどのくらい東京に居たんです?
文雀  幼稚園までおりました。
米朝  ああ、さよか。
文雀  昭和9年ですか。それでこちらにまいりまして...。それまでも文楽に連れられたり、お芝居も歌舞伎の方もよく行って、憶えてるのは、「あれが鴈治郎だよ」と言って、顔見世で二階の一番下手の出たところの桟敷で拝見したんです。その翌日倒れられて、翌年の2月に亡くなられた。だから最後の舞台を見た。
聞き手  初代中村鴈治郎...
米朝  たまたま見られたわけですか。
文雀  三浦之助ね。
聞き手  そうですね、最後は。
文雀  あの花道から出ないで舞台半回しにしてね、出て来られた。それからその追善がございましてね、梅玉さんが(菅原伝授手習鑑の)菅丞相(かんしょうじょう)なさって...
聞き手  三代目の梅玉さんですね。
文雀  それでこの間の二代目鴈治郎さんが扇雀時代で、苅屋姫を。それを拝見しました。七代目の大和屋・三津五郎さんが宿禰太郎(すくねたろう)でね。そんなのを憶えておりますけれど。それで昭和13年10月の文楽の公演を見ましたときが忠臣蔵の通しでして、初代の栄三師匠の由良助と文五郎師匠のおかる。この梯子のくだりがあまりにも結構。それに魅せられましてね。それから文楽へ通うようになりました。
米朝  へぇ〜、茶屋場から
文雀  その茶屋場が本当になんとも言えない、文五郎師匠のおかるの艶やかな...。そういうことで伺うようになって。父もそういうことで駒大夫さんを贔屓にしてましたから、話をしましたら、ふっと話しが弾みましてね、それから栄三さんの部屋にも伺う、文五郎師匠の部屋にも伺う、そして玉助さんとか玉市さんの部屋にも伺うようなことをしてました。それが昭和13年。そして14年10月24日に父が亡くなりました。亡くなる前動けなくなって、阪大病院に入院してるときに文五郎師匠が手巻きの蓄音機で『酒屋』のさわりをかけて、自分が人形持ってきて、枕元で遣ってくださった。
聞き手  お園の人形を...
米朝  へぇ〜
文雀  私も欲しい欲しいと、お園の飾り人形を作ってもらって、家にも一つございました(笑)それをね今の国立劇場の山田庄一さんが、あそこのおじい様とうちの父とが仲良うございまして...
米朝  水落さん。
文雀  ええ、水落さんの遺稿を整理するのに山田庄一さんのお父さんと一緒に取りに来られた。で、山田庄一さんが隣覗いたら私がお園の人形を持って、ひねくり回してるんで、「羨ましいなと思うた」と今でも言うてます。
米朝  (笑)
文雀  山田庄一さんとはその頃からのお付き合い...
米朝  なるほど古い話しや〜...

文雀  そして私、その時分に芝居に凝って、みんなからも「ボン、ボン」と言われていい調子になって楽屋にも遊びにいってた。その翌年の6年生のときに、学校からうちの母が呼び出されて、「この頃私が遊び惚けてる」と
聞き手  勉強してないと..
文雀  「勉強も全然出来ないし、宿題もしないし、惚けてる」と。せやから「上の、中学には入れない」と言われましてね、それで母が初代の吉田栄三師匠のところへ行って、「うちの子はもうお人形に凝ってしょうおませんねん。こうこうこうで」と言ったら、吉田栄三師匠から意見の手紙が来たんです。「ボンがそんなに私らを好いて頂いて...」言葉がいいでしょ。「好いて頂いて部屋に来て頂くのは非常に嬉しゅうございますけども、それではお父さんの後を継ぐことが出来ないということは、親旦那に対して私どもに取っては非常に心苦しゅうございますので、上の学校へ入るまで文楽への足は遠ざけて頂きますように・・・」と
聞き手  それはすごいですね。
文雀  その手紙が今残ってたらたいしたもんでしょうけども、火事で焼いてしまいました。
米朝  あ〜...。そんでしばらく行かれなくなった...
文雀  行かれなくなった。そしてまぁ〜、甲陽中学へ入ったんです。で入ったとなったらまた遊びにいきだした。
米朝  (笑)安心して...
文雀  ほんなら今度、2年へ上がるときに落第したんです。そしたら母が、「もう人に対しても顔向けでけん。恥ずかしいわ〜」とよう言うてました。そしたら何が幸せになるか、昭和19年、20年ですか、決戦体制になりましてね、旧制中学5年でしたけど、あれが4年で卒業になった。それで私は学校に残って、幼年学校へ行かなくて済んだんです。私は1年しくじったもんですから学徒動員で工場にいけばいい。私の同級生は幼年学校や少年航空隊へ、皆行ったわけです。
聞き手  落第したことでこんな幸いなことはないですね。
文雀  「もう、あんたみたいな人知らんわ」ちゅうて、うちの母がよう言うてました。決戦体制になって、それまで学徒動員で、学生が工場の中でお手伝いするのは昼間だけだったんです。そこで私が行ってました神戸製鋼は、線引きと言うて、ピアノ線をこしらえてた、バネとかね。曲がったところへ指を突っ込みまして、この指(右手の人差し指)が半分切れたんです。これは公傷で認められているわけ。でこの線が石灰の水に通してるんですよ。(それで傷口に)石灰が入りまして腐ってきたんです。三月ほど来なくていいと...。家におっても戦争が激しくなって、どこへ行くことも出来ないから、昭和19年の8月。神戸の楠公さんの前の八千代座。あそこで文楽やってまして、そこへ遊びにいったんです。頭取の吉田玉市さんとこへ行ったら、昨日は誰々がと...。兵隊に行く人は早よ行ってしまって、20代〜40代の人はみな行ってるんです。それから下の17〜8ぐらいまでみな、徴用で・・・。満州に行かされる者やら何やらが出てきた。もうどうしてもこの...、足遣う連中は、今の蓑助さんとか、亡くなった春太郎とか、玉昇なんか。小学校はお昼で終わってそれから走ってきて足を遣った。だから足遣いの小さい子はいる。で人形遣うのは50(歳)越したお年寄り。ところが間で左遣う人が誰もいない。「この左持ってみ」って家で人形弄いなぶりしてますからね、持つぐらい持ちますからね。その出し物が『重の井の子別れ』でしてね、玉市さんが本田弥三左衛門。「ちょっとボン、わしの黒衣来てみ。あ〜、ちょうど合うわ。これ着てな、この頭巾被って、これもって、ちょっと手伝うて」ちゅうて、舞台出たんです。で、左持ってたんですけど...、黒衣着てますけど足下はね、ゲートル巻いて軍靴履いてます。
米朝  あ〜。
文雀  そしたら文五郎師匠が重の井遣うてて、大きな声で「誰やねんこれは」ちゅうて(笑)で、幕済んでからひょいと頭巾とったら「お、ボンか。えらいえらい。これから毎日来んのやで」
米朝  (笑)
聞き手  へぇ〜
文雀  それがまたね、外へ出ましたら、鼻つままれても分からない、真の闇でございますわね。
米朝  空襲警報やからね。
文雀  それが舞台出ると明々としてますでしょ、その明るさが魅力でね(笑)それから手伝うようになりました。空いてる日は手伝ってたんです。そしたら初代の栄三師匠が「何やボンお前何しに来てんのや」「いや、頭取さんが黒衣着てたら喜んじゃって、暇やったらしょっちゅう来てまんねん」「え!! ほんな、いかんがな。誰が面倒見とんのや?」「玉市さん」「しょうがないわしが面倒見よう」と言うて、初代の吉田栄三さんから松竹さんのところへお話が行きまして、そして翌年20年の3月14日に栄三師匠とお杯するようになったんです。でその年の3月は地方公演で、栄三師匠は年で腰痛があったので、お芝居休んでおられた。で栄三師匠のお宅で松竹から頭取さんも来てそこで立ち会って、お杯するはずだった。そしたら3月13日の晩に空襲でしょ。
米朝  空襲で...
文雀  文楽も焼け、松竹も焼け、栄三師匠も焼けだされ、文楽の人形は一切、大阪にはなくなってしまった。栄三師匠は命からがら、お客さんの奈良でお医者さんになってる方に引き取られて、大和小泉に疎開された。ということでね、そのままで...。それから後2回ほど舞台は出られましたけども、それもやっとこさ出て、12月に亡くなられた。そしたらその時、6月に堂島の北の方に松竹さんの小屋があって、そこで復興公演やろかと言ったら、そこも空襲で焼けましたので、焼け残った朝日会館、あそこで7月に復興公演がございましてね...。その頃はね、芸人が集まらない。みんな疎開してましたから。やからみな縁故をたどって、清六さんでも関東の方においでになったし、玉五郎さんでも鳴門の方におられた。みな来られないんです、乗り物が(なくて)それで人がよけい足らないんです。
米朝  キップは取れんしね。
文雀  なんか貨車に乗ったりね、荷物の上に乗ったりして来られた方もあるんですよ。「ボン!手伝うてや」と言われて手伝うてたら、松竹の重役さんが詰めておられて、「あれ誰や、どこの弟子や」「いや弟子やおまへんねん。ご贔屓のボンねんでけどね。人が足らんので手伝うてもろうてまんねん」「なんぞ、払うてんのか」「いや」「じゃ、自前で...」「働いとります」「そりゃ会社としていかんがな」と言うて、翌8月も公演があったんです。そのときに「ボン、電車賃あげよう」言うて、「いやそんなもの...」「いや、取っとき」「ボン、わしがな認めるから入らへんか」「いや栄三師匠のとこで杯をと云われているですが...」「栄三師匠の弟子になってもな、栄三師匠からわしのとこへ連れてきて、わしの許可を得んことには松竹の芸人にはなられへん。それよか、わしが認めるから松竹の芸人になり。それで栄三師匠が出てきはったら、また栄三師匠のとこへ行ったらええがな」と演劇担当重役の藤井さんという方がね、仰ってくれた。そやけどね9月24日か26日か分かりませんけど航空隊行くように(通知が)来てるんですと...。その時分の少年航空隊というのは、行きだけの燃料で、帰りはないんです。「沖縄飛んでいくんです。ですからもうお腹くくってますねん。」と云うたら、「そない言うてもな、人間の寿命ちゅうのは分からへんねん。まぁまぁそないいうたら、“ハイ”と云うて、わしの言うこと聞いとき」「は、そうですか」とそれが8月の14日ですねん。
二人  へぇ〜
文雀  で翌日が終戦ですねん(笑)
米朝  う〜ん
文雀  ということで、なんともつかん...。それで今度9月1日から松竹さんの方から私のとこへ手紙が来て、(京都)南座で開演するから、復興第1回公演に出て来いと。学校の方はその9月1日から再開するから出て来いと...
聞き手  (笑)
文雀  どっちにしよう、と言うたら、母親がね、「あんたみたいなん、知らんから、好きな方にいきなはれ」と言うたんです。「今から学校行ってまたしても、面白ないわ。芝居するわ。その方が気楽でええわ」というて、芝居へ行ってしもうた。
米朝  はぁ〜はぁ〜
文雀  それで、現在まで至る...

米朝  その時は栄三師匠の弟子という形で?
文雀  いや、玉市師匠の預かりという形で。
聞き手  よく文楽は、足が10年、左が10年って言いますよね。
文雀  私が入った時、草履揃えてたら、「ボンはそんなことせんでもいい」こういわれた。下積みの修行でやってたのは幕の開け閉めだけで、その他の草履揃えたり、袴叩いたり、手ぬぐい搾って持っていったり、蓮台を置いたり、小道具を運ぶ、そういうの何にもしてませんから、私まるっきり下積みの修行をしておりまへん。
米朝  特別の存在だったわけですわな。
聞き手  すごいですね、それ。でも結局、玉市さんのずっと預かりじゃなくて、文五郎師匠の門下になるわけですね。
文雀  その前に、文楽は労働組合で資本家側(因会)と組合派(三和会)に別れました。で、資本家側の方に文五郎師匠や玉市さんや...で同じ部屋に、私が入った時分はまだいないんですけども、入って1年ほどして玉男さんが復員してきて、「ボン、本職になったんか。そうか」と言うて同じ部屋におられたんで、玉男さんにも可愛がってもらったんですけど、玉男さんやら、子供時分可愛がってもらった玉助さん、みな資本家側、松竹さん側だったので、私もそれについていったわけです。
聞き手  それで『因会』の方にいったわけですね。
文雀  それで昭和25年1月に四ツ橋の文楽で初めて組合側が抜けて資本家側、その頃は因会という名前が付いてましたけど、因会だけで興行が始まったんです。人数は半分になったんで少ないんです。それで入って5年ですけどね(笑)「お前やれるやろ?わしが大丈夫や言うたから、お前やりや」と文五郎師匠に言われて、太閤記の初菊をさして頂いた。
米朝  へぇ〜
文雀  そしたらそれを白井会長がご覧になって、「あれ、誰や」「こうこうこうして入った...」「ふ〜ん。師匠誰や?」「今頭取さんの玉市さんに預かってもらってます」「名前は?」「本名」「ほんならあれな、然るべきところへ弟子にやってな、芸名付けてな、芸人として売ったり」
聞き手  白井会長がそう仰った...。
文雀  それで文五郎師匠のとこへ行ったら、「玉市、お前この子と、弟子師匠の契約はなんぞしてんのか?」「何もしてません。ただ栄三さんがなさるというので、その栄三さんが亡くなられたんで、預かってる」「そうか。そんならわしが引き取ってもええか?」そいで文五郎師匠のとこへ「ちょっと来い。4月からなわいの弟子やで、ええか」と言うて、そういうことになりましてね。そしてうちへ来いちゅうことで行きましたらね、「『文五』ちゅう名前にせえ」って。「そんな、出来ません」『文五』と言うのは三人遣いを初めて作られたと言われる、初代吉田文三郎さんの上の息子さんの名前が『文五』でその弟さんが『文五郎』でしょ。師匠より上の名前を、どないして継げますか。ほんなら「お前、なんなと、考えて名前付けて来い」と言うんです。で師匠の家が塩町で、御堂筋を歩いて千日前まで来て、歌舞伎座の楽屋の裏んとこに大道の易者がいて、ひょっと覗いたら、ひょっと手を掴んで、「お前苦労するけどもな、一匹狼やな。苦労するけど、あるとこまで行き着くやろ」と言うてくれたんです。「あそうですか。芸にしても何とか一生食っていけますか?」「努力次第で食っていけるやろ」こう言われた。それから楽屋へ入って、仲のいい扇雀のとこ行って、「今うちの師匠からこない言われてな、名前考えて来いと言われた」「え!!」横で二代目の鴈治郎さんが「二人仲ええさかい、『雀』付けて『文雀』にしとき」
聞き手  ほぉ〜
文雀  「よろしいですか?」ちゅうたら、「あ〜、ええがな」扇雀に「ええかな」「ええよ」ちゅうて。ほんなことですね。
米朝  それで『文雀』になった。
聞き手  はぁ〜...

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扇子

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