| 文雀 |
そして私、その時分に芝居に凝って、みんなからも「ボン、ボン」と言われていい調子になって楽屋にも遊びにいってた。その翌年の6年生のときに、学校からうちの母が呼び出されて、「この頃私が遊び惚けてる」と |
| 聞き手 |
勉強してないと.. |
| 文雀 |
「勉強も全然出来ないし、宿題もしないし、惚けてる」と。せやから「上の、中学には入れない」と言われましてね、それで母が初代の吉田栄三師匠のところへ行って、「うちの子はもうお人形に凝ってしょうおませんねん。こうこうこうで」と言ったら、吉田栄三師匠から意見の手紙が来たんです。「ボンがそんなに私らを好いて頂いて...」言葉がいいでしょ。「好いて頂いて部屋に来て頂くのは非常に嬉しゅうございますけども、それではお父さんの後を継ぐことが出来ないということは、親旦那に対して私どもに取っては非常に心苦しゅうございますので、上の学校へ入るまで文楽への足は遠ざけて頂きますように・・・」と |
| 聞き手 |
それはすごいですね。 |
| 文雀 |
その手紙が今残ってたらたいしたもんでしょうけども、火事で焼いてしまいました。 |
| 米朝 |
あ〜...。そんでしばらく行かれなくなった... |
| 文雀 |
行かれなくなった。そしてまぁ〜、甲陽中学へ入ったんです。で入ったとなったらまた遊びにいきだした。 |
| 米朝 |
(笑)安心して... |
| 文雀 |
ほんなら今度、2年へ上がるときに落第したんです。そしたら母が、「もう人に対しても顔向けでけん。恥ずかしいわ〜」とよう言うてました。そしたら何が幸せになるか、昭和19年、20年ですか、決戦体制になりましてね、旧制中学5年でしたけど、あれが4年で卒業になった。それで私は学校に残って、幼年学校へ行かなくて済んだんです。私は1年しくじったもんですから学徒動員で工場にいけばいい。私の同級生は幼年学校や少年航空隊へ、皆行ったわけです。 |
| 聞き手 |
落第したことでこんな幸いなことはないですね。 |
| 文雀 |
「もう、あんたみたいな人知らんわ」ちゅうて、うちの母がよう言うてました。決戦体制になって、それまで学徒動員で、学生が工場の中でお手伝いするのは昼間だけだったんです。そこで私が行ってました神戸製鋼は、線引きと言うて、ピアノ線をこしらえてた、バネとかね。曲がったところへ指を突っ込みまして、この指(右手の人差し指)が半分切れたんです。これは公傷で認められているわけ。でこの線が石灰の水に通してるんですよ。(それで傷口に)石灰が入りまして腐ってきたんです。三月ほど来なくていいと...。家におっても戦争が激しくなって、どこへ行くことも出来ないから、昭和19年の8月。神戸の楠公さんの前の八千代座。あそこで文楽やってまして、そこへ遊びにいったんです。頭取の吉田玉市さんとこへ行ったら、昨日は誰々がと...。兵隊に行く人は早よ行ってしまって、20代〜40代の人はみな行ってるんです。それから下の17〜8ぐらいまでみな、徴用で・・・。満州に行かされる者やら何やらが出てきた。もうどうしてもこの...、足遣う連中は、今の蓑助さんとか、亡くなった春太郎とか、玉昇なんか。小学校はお昼で終わってそれから走ってきて足を遣った。だから足遣いの小さい子はいる。で人形遣うのは50(歳)越したお年寄り。ところが間で左遣う人が誰もいない。「この左持ってみ」って家で人形弄いなぶりしてますからね、持つぐらい持ちますからね。その出し物が『重の井の子別れ』でしてね、玉市さんが本田弥三左衛門。「ちょっとボン、わしの黒衣来てみ。あ〜、ちょうど合うわ。これ着てな、この頭巾被って、これもって、ちょっと手伝うて」ちゅうて、舞台出たんです。で、左持ってたんですけど...、黒衣着てますけど足下はね、ゲートル巻いて軍靴履いてます。 |
| 米朝 |
あ〜。 |
| 文雀 |
そしたら文五郎師匠が重の井遣うてて、大きな声で「誰やねんこれは」ちゅうて(笑)で、幕済んでからひょいと頭巾とったら「お、ボンか。えらいえらい。これから毎日来んのやで」 |
| 米朝 |
(笑) |
| 聞き手 |
へぇ〜 |
| 文雀 |
それがまたね、外へ出ましたら、鼻つままれても分からない、真の闇でございますわね。 |
| 米朝 |
空襲警報やからね。 |
| 文雀 |
それが舞台出ると明々としてますでしょ、その明るさが魅力でね(笑)それから手伝うようになりました。空いてる日は手伝ってたんです。そしたら初代の栄三師匠が「何やボンお前何しに来てんのや」「いや、頭取さんが黒衣着てたら喜んじゃって、暇やったらしょっちゅう来てまんねん」「え!!
ほんな、いかんがな。誰が面倒見とんのや?」「玉市さん」「しょうがないわしが面倒見よう」と言うて、初代の吉田栄三さんから松竹さんのところへお話が行きまして、そして翌年20年の3月14日に栄三師匠とお杯するようになったんです。でその年の3月は地方公演で、栄三師匠は年で腰痛があったので、お芝居休んでおられた。で栄三師匠のお宅で松竹から頭取さんも来てそこで立ち会って、お杯するはずだった。そしたら3月13日の晩に空襲でしょ。 |
| 米朝 |
空襲で... |
| 文雀 |
文楽も焼け、松竹も焼け、栄三師匠も焼けだされ、文楽の人形は一切、大阪にはなくなってしまった。栄三師匠は命からがら、お客さんの奈良でお医者さんになってる方に引き取られて、大和小泉に疎開された。ということでね、そのままで...。それから後2回ほど舞台は出られましたけども、それもやっとこさ出て、12月に亡くなられた。そしたらその時、6月に堂島の北の方に松竹さんの小屋があって、そこで復興公演やろかと言ったら、そこも空襲で焼けましたので、焼け残った朝日会館、あそこで7月に復興公演がございましてね...。その頃はね、芸人が集まらない。みんな疎開してましたから。やからみな縁故をたどって、清六さんでも関東の方においでになったし、玉五郎さんでも鳴門の方におられた。みな来られないんです、乗り物が(なくて)それで人がよけい足らないんです。 |
| 米朝 |
キップは取れんしね。 |
| 文雀 |
なんか貨車に乗ったりね、荷物の上に乗ったりして来られた方もあるんですよ。「ボン!手伝うてや」と言われて手伝うてたら、松竹の重役さんが詰めておられて、「あれ誰や、どこの弟子や」「いや弟子やおまへんねん。ご贔屓のボンねんでけどね。人が足らんので手伝うてもろうてまんねん」「なんぞ、払うてんのか」「いや」「じゃ、自前で...」「働いとります」「そりゃ会社としていかんがな」と言うて、翌8月も公演があったんです。そのときに「ボン、電車賃あげよう」言うて、「いやそんなもの...」「いや、取っとき」「ボン、わしがな認めるから入らへんか」「いや栄三師匠のとこで杯をと云われているですが...」「栄三師匠の弟子になってもな、栄三師匠からわしのとこへ連れてきて、わしの許可を得んことには松竹の芸人にはなられへん。それよか、わしが認めるから松竹の芸人になり。それで栄三師匠が出てきはったら、また栄三師匠のとこへ行ったらええがな」と演劇担当重役の藤井さんという方がね、仰ってくれた。そやけどね9月24日か26日か分かりませんけど航空隊行くように(通知が)来てるんですと...。その時分の少年航空隊というのは、行きだけの燃料で、帰りはないんです。「沖縄飛んでいくんです。ですからもうお腹くくってますねん。」と云うたら、「そない言うてもな、人間の寿命ちゅうのは分からへんねん。まぁまぁそないいうたら、“ハイ”と云うて、わしの言うこと聞いとき」「は、そうですか」とそれが8月の14日ですねん。 |
| 二人 |
へぇ〜 |
| 文雀 |
で翌日が終戦ですねん(笑) |
| 米朝 |
う〜ん |
| 文雀 |
ということで、なんともつかん...。それで今度9月1日から松竹さんの方から私のとこへ手紙が来て、(京都)南座で開演するから、復興第1回公演に出て来いと。学校の方はその9月1日から再開するから出て来いと... |
| 聞き手 |
(笑) |
| 文雀 |
どっちにしよう、と言うたら、母親がね、「あんたみたいなん、知らんから、好きな方にいきなはれ」と言うたんです。「今から学校行ってまたしても、面白ないわ。芝居するわ。その方が気楽でええわ」というて、芝居へ行ってしもうた。 |
| 米朝 |
はぁ〜はぁ〜 |
| 文雀 |
それで、現在まで至る... |