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「共通の憎しみほど、人間を団結させるものはない」
戦後65年。戦争の記憶も遠くなった平成の世の日本。
しかし、未だ「戦後」に決着が付かないまま生きている人が数多くいる。
■佐藤さん「変な臭いがした。戦友を火葬した」
佐藤啓一さん、90歳。
桶作りの職人として、酒造メーカーで勤め上げ、
現在は、京都市内で息子や孫に囲まれて生活している。
桶作りで鍛えた足腰は今もしっかりしていて、
和やかな雰囲気が魅力的なおじいさんだ。
しかし、90年の人生を支えたこの職人の腕が、
皮肉にも、佐藤さんの運命を翻弄した。
それは、『シベリア抑留』だ。
特別番組『抑留兵、卒寿を生きる』〜異国の丘に遺す最後の願い〜
♪歌声喫茶『カチューシャ』
『シベリア抑留』とは
敗戦後、満州や樺太、千島列島などにいた旧日本兵たちが
戦勝国のソ連によって、強制的に極寒の大地に送られ
最低でも2年、長い人では11年間にわたって
労働させられたことを言います。
日本政府は、抑留者56万人、そのうち死者は5万3000人としていますが、
正確な数は把握されていません。
『シベリア抑留』については、去年大きなニュースがあった。
ロシアの軍事古文書館から、
70万人分の日本人抑留者の記録を記したカードが見つかったのだ。
この新たな資料について、政府は、どう対応しているのだろうか?
厚生労働省社会・援護局の馬場(ばば)調査資料室長に聞いた。
■馬場室長「70万枚のカードは入手中」
ただ、このカードは政府の把握する抑留者の数と、大きく違う。
どんなカードなのだろう。馬場室長の話だ。
■馬場室長「70万枚のカードはどんなもの」
戦争から65年経ってようやく、
抑留者の全貌に近づける
基本的な資料が見つかったといえる。
しかし、そのカード1枚1枚に書かれた
抑留者の人生は計り知れない。
佐藤さんは昭和18年、21歳で徴兵された。
桶職人としてひとり立ちしたばかりだった佐藤さんは、
ノコギリや金づちなどの大工道具が使えるというので
当時日本の領土だった千島列島の守備隊に建築部隊の隊員として配属された。
千島列島の北の端、カムチャツカ半島に近い
幌筵(ほろむしろ)島で、兵隊の宿舎の建設に携わり、
鉄砲を1発も撃つことなく、終戦を迎えた、はずだった。
♪玉音放送
■佐藤さん「終戦と思ったら、ソ連軍が攻めてきた」
佐藤さんたちは、丸腰で、ソ連軍の管理下に置かれたが
4ヶ月近く、何の命令もないまま千島に留め置かれた。
12月中旬になって、貨物船に乗せられ、幌筵島を出発した。
「日本に帰れる。」佐藤さんの期待は、しかしすぐにしぼんだ。
■佐藤さん「日本の港じゃないと。だまされた」
シベリア抑留の体験談には、こういう話が多い。
ふるさとに帰れるという思いを抱いた日本兵が、
ウラジオストクの港の風景を目の当たりにして
愕然とする、というものだ。
抑留を経験した人が、口々にロシア人への反感から、
「ロスケに騙された」「非道いやつらだ」と
掃き棄てるように言うのは、この経験から始まっている。
なぜ佐藤さんたちは騙され、働かされたのか?
そもそも、ソ連はなぜ日本兵を「シベリア抑留」にしたのか?
その真相は1991年にソ連が崩壊し、ロシアになってから、
少しずつ、明らかになってきた。
ソ連の機密文書を引き継いだロシアの公文書館に
日本兵の「シベリア抑留」を決定した運命的な極秘電報があります。
1945年8月23日付け。
発信者は、当時のソ連最高指導者、ヨセフ・スターリンでした。
タイトルは「日本人捕虜50万人の受け入れ収容労働利用に関する決議」。
50万人をどこに何人配置し、どんな労働をさせ、どう食料や資材を供給するか、
極秘電報にはこと細かく、指示が出されていました。
捕虜の強制労働という明白な国際法違反を、
国家の指導者自らが命じた証拠です。
ソ連は、戦争で国土が荒廃し、多くの兵隊を失った。
国を立て直すため、労働力はのどから手が出るほど欲しかった。
佐藤さんたちの運命は、国家再建を急ぐソ連の都合で、
終戦から8日目には、すでに決まっていたのである。
そんなソ連の意図を知らない佐藤さんたちは、
ソ連軍の命令のまま、移動させられることになった。
■佐藤さん「シベリアで使われると子どもが話していた」
収容所へ送られる日本兵を
たくさん見ただろう子どものいうことは、半分本当だった。
佐藤さんたちは皮肉にも、1945年12月24日、
クリスマスイブに、シベリア鉄道の貨物列車に乗せられた。
♪『発車*電気機関車』
■佐藤さん「貨車に44人詰め込まれた」
乗せられたのは、家畜運搬用の貨車だった。
当然暖房などない。
粗末なスープと黒パンの配給を受けただけで、
氷点下40度の極寒のシベリアをおよそ40日かけて横断した。
いつの間にか、年は明けていた。
ロシア公文書館の記録によると
シベリア抑留者の中で、終戦の年・昭和20年の冬に亡くなった人は
およそ3万人とされる。
抑留で死亡した人の半数以上が、この冬を越せなかった。
終戦の年のシベリアの冬の過酷さはどうだったのか?
ほかの抑留者の話を聞く機会があった。
♪シベリア抑留を語る会 乾杯
今年1月、抑留を生き抜いた人々17人が、大阪で集まった。
彼らは毎年新年会を開き、親睦を深めているが、
顔を合わすと話題はやはり、あの辛い体験になってしまう。
みな80歳を超えているが、
過酷な体験を忘れようもなく、はっきりと覚えている。
■シベリア抑留を語る会 悲惨な死の現実
ソ連政府でも、抑留者の死亡は大問題でした。
ただ、人道的な見地からではありません。
国際法を違反してでも連れてきた貴重な労働力が
失われることを恐れていました。
ロシアに残るソ連の資料によれば、翌年、昭和21年の春以降、
収容所を暖かく保つこと、食料を充分に配給することなどが
決められています。
極寒の地で、戦友が次々と犠牲になる中、
とにもかくにも、最初の冬を佐藤さんは生き抜いた。
家畜同然の扱いで運ばれたのは、
モスクワに近い、モロトフスカヤという場所にある収容所だった。
「シベリアに送られる」と言った子どもの言葉は、半分はずれた。
■佐藤さん「講堂のような建物に2段ベット。木材伐採1ヶ月」
地理の上ではもうヨーロッパにあるこの収容所では、
ドイツ人捕虜も一緒に働かされていた。
そのドイツ人捕虜との出会いと桶職人の腕が、
佐藤さんの運命を少し動かす。
■佐藤さん「ドイツ人捕虜とともに大工に」
佐藤さんは、大工仕事の棟梁であるドイツ人捕虜から
身振り手振りで少しずつ、ロシア語を習い、
ソ連の地で生きていく知恵を身につけ始めていた。
終戦から丸1年の夏を迎えようとしていた、昭和21年7月。
佐藤さんに、200人あまりの仲間とともにまた貨物列車に乗せられる。
日本に帰れるわけではない。
過酷な現場で使われるのではないか?佐藤さんは絶望の淵に立たされた。
■佐藤さん「移動を聞いて皆心配した。炭鉱は嫌」「南に下って安心」
佐藤さんたちが向かったのは、黒海に通じるアゾフ海に面した都市、
タガンログだった。
タガンログは19世紀のロシアの文豪、チェーホフのふるさとだ。
この地域を舞台にしたチェーホフの戯曲になぞらえると
こんな感じだったのではないだろうか?
♪歌声喫茶『ともしび』
「この郡内で、私ほど働く男は1人だっていないでしょう。
運命の鞭(むち)が、小止みもなしに私の身に降りかかって、
時にはもう、ほとほと我慢のならぬほど、つらいときもあります。
なのに私には、はるか彼方で瞬(またた)いてくれる灯火(ともしび)がないのです。」
佐藤さんは、日本から実に7500キロも離れた
さいはての収容所のひとつに連れてこられた。
この収容所ではすでに日本人抑留者が働いていた。
佐藤さんたちは補充の労働要員だった。
木材の伐採、鉄道の建設が中心のシベリアとは違う海辺の町・タガンログで、
日本人捕虜は、どんな労働をさせられていたのか?
佐藤さんの来る以前からこのタガンログの収容所で働いていた
増田舜(しゅん)さんは、次のように語る。
■増田さん「住宅の建設現場で働いた、重労働だった」
戦場だった街の復興、文字通り、ソ連の国家再建のため、
増田さんは汗と埃にまみれて、辛い建設現場で働かされていた。
増田さんは、戦闘機の整備に携わる技師だった。
しかし、増田さんが持つ機械や電気の知識は、
当時のソ連社会には、必要とされなかった。
むしろ、金づちやノコギリを使って、工場の建物が修繕出来る
佐藤さんの腕の方が重宝された。
佐藤さんは街中にある、ロシア人労働者のいる工場で働かされた。
戦争の被害で扉や屋根が壊れ、大工仕事をするところはいくらでもあった。
ロシア語のわかる佐藤さんは、便利に使われた。
■佐藤さん「仕事場では通訳を頼まれた」
ロシア人の労働者と肩を並べて働いていた抑留者は、非常に珍しい。
そういう意味でも佐藤さんのタガンログでの体験談は、
終戦直後のソ連を知るうえで大変貴重な証言といえる。
佐藤さんがタガンログで感じた、当時のソ連の印象はどんなものだったのか。
■佐藤さん「何でも盗られた」「貧しい国と思った。何もない」
ソ連は、ドイツとの戦争で打撃を受け、
生活物資が国民にいきわたっていなかったことがわかる。
佐藤さんは、工場で働くロシア人労働者から国家への不満も耳にした。
■佐藤さん「今のスターリンの時代より、むかしが良かった」
♪ロシア民謡『ボルガの舟歌』
当時世界中には、
戦争に勝ったスターリンがソ連で英雄視されている、と伝えられていた。
しかし実態は戦争に勝つため独裁体制が敷かれ、
国民の生活は犠牲にされていた。
ロシア人労働者は、抑留という形で国家の犠牲になっている
佐藤さんに同情し、本音をもらしたのではないだろうか?
日本から遠く離れて、ソ連の国家再建のために働く佐藤さんに、
日本への帰国の話は、まだ届かない。
日本政府は、少なくとも終戦の年、
昭和20年の秋には、抑留の事実を把握していました。
ただ、敗戦国の悲しさ、占領軍であるアメリカに、
ソ連から抑留者を取り戻す交渉をしてもらうよう
お願いするしか出来なかったのです。
佐藤さんたちは国家の狭間で置き去りにされていた。
そもそも、日本政府はなぜ、ソ連の国家ぐるみの犯罪を
許してしまったのだろうか?
シベリア抑留者の中には、
「日本がソ連に自分達を売り渡したのだ」と話す人もいる。
大阪で、抑留者の集会に出席した人からもその話は聞かれた。
■シベリア抑留を語る会 「日本に売られた」
この噂は抑留者の中で、昔から囁かれていたが、
噂の根拠とも言える文書がソ連崩壊後の1993年に
ロシア公文書館で見つかった。
抑留された兵士のほとんどが所属していた
日本の関東軍の総司令部が、
終戦から2週間後に、ソ連軍の司令官に渡した報告書だった。
報告書には「帰還までの間につきましては、
極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いたい」という言葉があった。
「『貴軍の経営に協力する如く御使い願いたい』
これこそ日本軍がソ連に自分達を売り渡した証拠だ」
抑留者たちは怒り、国に、謝罪と補償を求めて裁判を起こした。
去年10月、京都地裁でその裁判の判決が出た。
■シベリア抑留国陪訴訟 判決
判決は、日本軍側が出した報告書よりも前に、
日本人抑留者を働かせるための
スターリンの極秘指令が出されていたことを、
請求棄却の理由に挙げた。
日本が、どういう態度で交渉しようと、
ソ連ははじめから、日本兵を労働力とすることを
決めていた、と判断したのだ。
しかしその一方で判決は、
抑留者に対して日本政府は何の補償もしてこなかった、とも
指摘した。
♪日ソ共同宣言調印後の鳩山一郎首相
1956年、日ソ共同宣言を結んだ直後の
現在の鳩山総理の祖父、鳩山一郎総理大臣の声です。
これでシベリア抑留者の全員帰国は、
実現しました。
実に抑留開始から11年が経っていました。
その後、政府は抑留者に何をしてきたのでしょうか?
抑留された期間は、軍人恩給に加算されることになりました。
しかし、兵隊である期間が短く、
恩給の資格がないシベリア抑留者に対しては、
10万円の旅行券と、銀杯、感謝状が贈られただけでした。
10万円の旅行券と、銀杯、感謝状。
これが、いつ帰れるかもわからず
極寒の地で死に直面する重労働を強いられた人たちに
日本政府が見せた「誠意」だった。
シベリア議連総会
♪シベリア抑留補償議員連盟 集会ノイズ
今月11日、判決を受けた形で国会議員たちが
「シベリア抑留者補償法案」成立に向けて動き出した。
恩給を貰っていない抑留からの生還者やその遺族に対し、
抑留期間に応じて最大150万円から25万円を
支払うという内容だ。
法案を取りまとめた民主党の谷博之・参議院議員に話を聞いた。
■谷博之議員「法案で抑留者に尊厳を」
補償のために、政府が支払う費用の総額は、およそ230億円、
しかし日本政府は、補償にあたって抑留者に謝罪する意思は見せていない。
♪歌声喫茶『カリンカ』
「歌声喫茶」で定番として歌われるロシア民謡。
シベリア抑留者が日本に持ち帰った文化のひとつだ。
ただ、シベリア抑留者が持ち帰ったもっと重い言葉がある。
「ノルマ」だ。
もともと、一定時間の労働で責任を持つ生産量のことだが、
達成できなければ、さらに重い労働がのしかかる。
ソ連が編み出した「ノルマ」という考え方に今も労働者は苦しんでいる。
佐藤さんも次々に「ノルマ」を背負わされ、
大工仕事でタガンログ市内の工場を次々移った。
ドイツ人捕虜とともに木造の船を作ったこともあった。
そんな佐藤さんをアクシデントが襲う。
■佐藤さん「製材所で怪我をした」
丸太を製材しているときに木材が
歯茎とあごの間を直撃して骨折、大量に出血し気を失った。
収容所にいる日本人軍医や、町の医者では手に負えず、
車で2時間の場所にある
ロシア南部の中心都市ロストフの大きな病院に移された。
■佐藤さん「患者千人、日本人も17.8人 結核多かった」
幸い、佐藤さんの怪我は、一ヶ月ほどで治ったが、
今度は、日本人患者の世話係をすることになった。
そうするうちに佐藤さんは、病院で異様な光景を目にする。
■佐藤さん「死んだ捕虜の体を解剖。ソ連の医学生が・・・」
亡くなった患者の遺体の行く末。
それはソ連の医学生のために解剖され、病院近くの山に埋められていたのだ。
なくなる患者は、何も外国人ばかりではない。
佐藤さんは、日本の戦友の「死に目」にも立ち会った。
■佐藤さん「私がいる間に、3人死んだ・・・」
なくなった戦友が、これ以上辱められてはいけない。
そう思った佐藤さんは、昼前に亡くなった戦友が
解剖されないよう、一計を案じた。
■佐藤さん「報告を遅らせて解剖させなかった」
解剖はされなかったが、ほかの遺体とともに、
病院近くの山にゴミのように埋められたのは変わらない。
もちろん墓標はない。
いわば佐藤さんだけが、彼らの遺体の場所を特定できる
手がかりを知っているのだ。
佐藤さんは亡くなった3人、高桑さん、藤本さん、中居さんの遺髪を、
収容所で日本人捕虜のまとめ役である元大尉の吉川さんにことづけた。
■佐藤さん「遺髪を渡した。帰っていると思いたい・・・」
佐藤さんは、日本に帰った後、吉川さんと連絡がついていない。
高桑さん、藤本さん、中居さんの親族の手に遺髪が渡ったのかどうか、
今もわからないままだ。
さらに、重大なことがわかった。
日本政府、厚生労働省は
タガンログ収容所での抑留死亡者は7人としている。
その中に、佐藤さんが看取った
高桑さん、藤本さん、中居さんの名前は、見当たらない。
ロストフに病院があったことも把握されていなかった。
1991年、当時のソ連ゴルバチョフ大統領は、
3万2千人分の抑留死亡者の名簿を明らかにしました。
日本が確認する5万3千人に満たない不完全なものでしたが、
厚生労働省は、その翌年から
ロシア国内での遺骨収集を続けています。
佐藤さんの体験談は、日本が確認できていない2万1千人分の死亡者のうち
少なくとも3人を特定する手がかりになる貴重な話ではないだろうか?
佐藤さんの声を、遺骨収集を担当する
厚生労働省社会・援護局外事室の梅原室長に聞いてもらった。
■佐藤さん証言〜梅原外事室長「新たな埋葬地ありうる」
梅原室長は、佐藤さんの話を貴重な証言と認めた。
その理由は、
70万枚のカードが去年初めて出てきたように、
ロシア側からの情報提供は不完全で、
抑留死亡者については、
日本からの情報を示すことで
明らかになることが多いからだという。
♪アゾフ会「ソ連の旅」日本人墓地法要
タガンログ収容所の抑留者だった「アゾフ会」のメンバーは、
1979年に、再びソ連の土を踏み、
シベリアの日本人墓地で慰霊の法要を営んだ。
その後、「アゾフ会」のメンバーは、
抑留されたタガンログを訪れた。
しかし自分達がいた収容所で亡くなった人たちの
埋葬場所はわからなかった。
旅行に参加した増田舜さんは、30年前すでに
抑留当時を思い出せるものはなかったと話す。
■増田さん 30年ぶりのタガンログの感想「ラーゲリはなかった」
♪『発車*電気機関車』
捕らわれの身になって、3度目の春。
佐藤さん、増田さんたちはようやく日本に帰れることになった。
連れて来られた時と同じ貨車に乗せられ、
東に向けてロシアの夏の大地を駆け抜けた。
■佐藤さん「貨車の中で歌を唄う者もいた」
♪引揚船第一便「興安丸」舞鶴入港時の音声
佐藤さんら2000人を乗せた引揚船「遠州丸(えんしゅうまる)」が
舞鶴に接岸したのは、
昭和23年7月14日だった。
■佐藤さん「兄貴が迎えに。帰郷は忘れられない」
抑留から3年。
ようやく佐藤さんの、長かった戦争が終わりを告げた。
佐藤さん一家の団欒
♪佐藤さんと息子&ご近所の団欒
佐藤啓一さんは引揚後すぐに結婚し、
桶職人として酒造メーカーで定年まで勤めあげた。
子どもや孫に囲まれて、
今は京都で穏やかに暮らす佐藤さんの心残りは、
やはりソ連で看取った戦友のことだ。
■佐藤さん「3人の身元が判ったら遺族と話がしたい」
生存する抑留兵はおよそ9万人、平均年齢87歳。
戦後も、国家に翻弄され続けた彼らの
怒り、憎しみ、友を失った悲しみを、
政府は、きちんと受け止めているのだろうか?
我々は知ろうとしてきたのだろうか?
抑留兵・佐藤啓一さんは、
異国の丘に遺した戦友への思いを胸に
卒寿を生きている。
■特別番組『抑留兵、卒寿を生きる』〜異国の丘に遺す最後の願い〜
特別番組『抑留兵、卒寿を生きる』〜異国の丘に遺す最後の願い〜
御案内は横内正と、
ABCアナウンサー堀友理子でした。
■佐藤さん ♪『カチューシャ』を口ずさむ佐藤さん
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