ぴたっと・ジャーナル

放送日:2010年8月23日(月)

“玉音放送”をプロデュースした男〜下村宏

ゲスト:
PHP総合研究所主任研究員 坂本慎一さん

 昭和20年8月15日の正午から、太平洋戦争の終戦を昭和天皇がラジオで国民に玉音放送として伝えました。戦争が終わったことを同時に国民に告げるのに、最も効果的な方法ともいえた玉音放送ですが、『天皇の声を直接電波にのせる』ということを発想し、これを実現させた人物について詳しく知っている人は多くないのではないでしょうか? その人物、下村 宏に注目して『玉音放送をプロデュースした男―下村宏』という本を出版された、PHP総合研究所主任研究員の坂本慎一(さかもと・しんいち)さんにスタジオにお越しいただきました。

(加藤)この玉音放送ですけれども、当時多くの国民がじっと耳を傾けたものですよね?

(坂本)「そうですね」

(加藤)天皇がラジオで直接国民に終戦を告げた放送というのは、当時はどれくらいのインパクトがあったのでしょうか?

(坂本)「ラジオが今と(比べて)、社会的な位置づけ、重みが違ったということが、一番大きいと思います。ご存知の通り、テレビもインターネットもありませんし、ラジオも戦前は民放がありませんので、NHKしかありませんでした。戦時中はNHKも第一放送だけで、1つしかないのです。だから皆さん、ラジオを聴いていて、それだけでもインパクトが大きかったということがいえると思います。
 今よりも当時の国民というのは非常に純朴で、お上のいうことをよく聞いてあまり疑わない、そのような国民ですので、ラジオで何か放送されると、それをみんなが真面目に聞いてしまう。そのような情勢だったといって良いと思います」

(加藤)天皇の声がラジオにのる、終戦のこの時まで、国民は天皇の声を聞いたことはあったのですか?

(坂本)「ほとんどの国民は聞いたことがありません。ですので、初めて天皇陛下の声を聞いたという感じだと思います」

(加藤)この玉音放送で、天皇陛下の声はこのようなものだと、そして戦争が終わったということを、同時に(知ったと)?

(坂本)「そうなのです。もし終戦の放送ではなくて、天皇陛下がラジオに出演されて『皆さん、こんにちは』と、ただそれだけの内容だったとしても、当時としては驚くべき放送だったといって良いと思います。しかも、内容が終戦ですので、二重に驚いたと思います」

(加藤)そうですよね。

(井之上)勝つと信じていましたものね、当時は・・・

(加藤)戦争が終わったということを国民に知らせる手段は、いろいろな手段があったと思いますが、それをラジオでということを思いついた下村宏さんは、どういう方だったのでしょうか?

(坂本)「一言でいうと“情報畑”の人ですよね。情報のプロといって良いと思います」

(加藤)そもそも、そうなのですね?

(坂本)「戦前に“逓信省”というところがあって、のちの“郵政省”なのですが、元々郵便をしていた人で、のちに朝日新聞の副社長を務めたりして、情報に関して非常に精通している人だったのですね。彼が新聞記者もしましたし、ラジオにも多く出演していましたので、どういう方法が国民に効果的かを、彼は非常に知り尽くしていたと思います」

(加藤)なるほど。ただ、天皇陛下にお会いしてその趣旨を説明するだけでも、非常にハードルの高いことだと思いますが、すんなりいったのでしょうか?

(坂本)「やはり、すんなりはいかなかったですね。特に天皇陛下の側近の人が、天皇陛下に雑用みたいなことをしていただくのは恐れ多いと」

(加藤)雑用のようなこと、確かにそうかも知れませんね・・・

(坂本)「恐れ多いということで、天皇の側近の人は反対したのですが、彼は朝日新聞時代から、いろいろな天皇の報道をしていますので、天皇の側近に様々なパイプがありました。それで、何とか裏から手を回して、天皇陛下にお会いすることができて、放送も依頼することができたというわけです」

(加藤)根回しをして、実現にこぎつけたということですね。当の天皇陛下ご自身は、どうだったのでしょうか。下村さんのお話を聞いて、この放送は8月15日ですが、いつお会いして、このような段取りになったのでしょうか?

(坂本)「下村宏さんが天皇陛下にようやくお会いできたのは、8月8日です。午後、2時間にわたって天皇陛下とお話しすることができました。その時、昭和天皇にラジオの出演以外にも、今のタイミングで終戦する、戦争を終わらせるしかないと、いろいろなことを下村宏さんはいうのですが、ラジオ出演に関しては、昭和天皇は嫌だとか、困るというようなことはいわれなかったようで、そこはすんなりいったようです」

(加藤)たった1週間で、玉音放送になったのですね。

(井之上)すごい話ですよね。

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(坂本)「天皇陛下のラジオ出演ということ自体は、下村宏さんは『自分はこんなことがしたい』といろいろなところでいっていました。ただ内容は、何を喋っていただくかはいっていないのですが、天皇陛下にラジオに出ていただくということは、ずっといろいろなところでいっていたので、放送自体は、放送関係者の間で心づもりは、ある程度あったと考えて良いと思います」

(加藤)今までお話しいただいた内容というのは、それほど世に出ていない内容だと思いますが、このことが分かったのはいつなのですか? 一部の学者や教授の間でとどまっていたということですか?

(坂本)「下村宏さんがラジオ(玉音放送)をプロデュースしたのは、今までもある程度は分かっていたのですが、ただ決定的な証拠がなかったので、下村宏で間違いないだろうと一部研究者の間でいわれていましたが、まだ本格的に調べるというところまでは至っていませんでした」

(加藤)つまり証拠が後々出てきたのですか?

(坂本)「そうですね」

(加藤)それは、どういったものになるのでしょうか?

(坂本)「下村家が国立国会図書館に寄贈していた書類がありまして、下村宏さんが8月8日に天皇陛下に拝謁して、前半の1時間話した内容は自分で本に書いていました。それに対して、昭和天皇が何をいわれたかということは書いていませんでした。下村家に残っていたその部分の原稿が、国会図書館に寄贈されていて、全部見たのですが、その中で下村宏さんが、自分で使わなかったのだと思うのですが、天皇陛下がラジオ出演、終戦に向けてどのようなお考えだったか、8月8日の時点でのお話しを書いた資料が出てきました。それで、下村宏さんで間違いないということになりました」

(加藤)そうなのですね。実現にこぎつけたといえ、その前には大変な軍部などの反発ななどもあったと思いますが、どのように説得していたのですか?

(坂本)「昭和天皇が“終戦”というご意思を固められてからは、割とすんなりいきました。しかしその前の段階で、当時はアメリカ軍が日本本土に迫っていて、本土決戦をするのだといわれていたので、下村さんは『天皇陛下にラジオに出ていただいて、国民を鼓舞する』とあいまいな、どうにでも受け取ることができるいい方で軍部を説得して、天皇陛下にラジオに出ていただくというのはOKですか? と聞いたところ、軍部はOKですと納得しました。
 そのような形で、あっちもこっちも説得し根回しをして、天皇陛下にラジオに出ていただくのはOKですね? と軍部を説得して、天皇陛下にお会いした時に、『終戦は今しかありません』ということで、終戦の放送になってしまったのです」

(井之上)下村さんが戦争を終わらせたといっても、過言ではないのですね。

(坂本)かなりの部分、そうだと思いますね。

(井之上)これ、すごい話やなぁ!

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(加藤)非常に冷静で、ありとあらゆる立場の人間に考慮して、立ち回って実現させたと。すごく頭の良い方なのだろうと思うのですが、どうして今まで、このような方がクローズアップされてこなかったのでしょうか?

(坂本)「最大の理由は、下村宏さん本人が終戦は自分の功績だといわなかったことでしょうね」

(加藤)自慢しなかったと?

(坂本)「そうですね。彼自身に奥ゆかしいところがあるといえばあるのですが、それ以上に、終戦後日本が非常に混乱しますので、『やはり天皇陛下を中心に日本を再建するのだと』という考えでした。そして、終戦も天皇陛下の功績だと。『天皇陛下がご聖断を下されたので、日本は平和を取り戻しました』と、下村宏は散々宣伝するのですね」

(加藤)ということは、戦後も見据えていたと?

(坂本)「はい」

(井之上)すごい! だって、終わることができなくてずるずると長くなった戦争ですものね。

(加藤)そこで止めたという功績は、あるかも知れませんよね。それにしても、近い関係者はもっと評価して然るべきではないかなあと思うのですが、どうも様子を伺っていますと、そのようなことも感じられないのですが・・・

(坂本)「一部、そういうことを書いている人はいましたね。玉音放送は下村宏さんが全てやったのだと書いている人も中にはいましたが、やっぱり天皇陛下が戦争を終わらせたのだと、下村さん本人がそういうものですから、そこが強く受け止められたということではないでしょうか」

(加藤)下村さんは玉音放送のプロデュースのみならず、いろいろなことを手がけられていたそうですね?

(坂本)「1番はじめの彼の功績は、逓信省にいて郵便局の簡易保険を作ったことです。いわゆる“簡保”ですが、それを作ったのは下村宏さんです。
 その後“台湾総督府”という、台湾での長官、いまの総理大臣のようなポジションを足掛け7年にわたって務めて、台湾経済を3倍に成長させた功績もあります。
 その後に朝日新聞に移って副社長になるのですが、社長が高齢だったので、実質、下村さんが第一人者という時代もあります。
 そのあと大日本体育協会、いまの日本体育協会の会長を務め、1940年東京オリンピックが開かれる予定が戦争でダメになったのですが、その責任者も務めました。その上で最後に、玉音放送もしたという人です」

(加藤)玉音放送のプロデュースをした時には、割とご高齢だったということですか?

(坂本)「そうですね、70歳でした」

(加藤)さまざまなご経験を経て、玉音放送のプロデュースというところへ至ったということですね。おそらくその中身も、いろいろな英知が詰まったものだったのでしょうね。非常に『耐えがたきを耐え』というところが印象的で、他のところはよくわからないのですが、内容的には緻密に練り上げられたものだったのでしょうか?

(坂本)「やはり天皇陛下と国民が、一体でなければならないという彼の信念ですね。ずっと彼はそのような信念で活動していて、朝日新聞の時も、玉音放送につながるのもそうだと思うのですが、天皇と国民は一体でなければならないという考えから、朝日新聞時代から報道していますし、写真や文字による報道に力を入れています。
 それをずっとやってきたので、やはりラジオにおいても、天皇と国民が一体になるのが理想だと考えて、それで玉音放送が実現したといえると思います」

(加藤)本当に歴史に名前を刻むような方だと思うのですけれどもね。

(井之上)知らなかったですわ。こんなすごいことを今まで知らなかったというのが・・・

(加藤)学校の教科書に載っていても、おかしくない方ですよね。

(坂本)「そうですね」

(加藤)何だかきょうは、知られざる一面を垣間見たような思いでいっぱいですね。

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